長い去風流の歴史の中で、作家や哲学者、歴史学者から政治家まで多くの文人が去風流に集い交流を深めて来ました。
特に「去風会だより」で「文人と去風流」と題して取り上げた文人は、深く交流をさせて戴き現在の去風流に繋がる大事なお客様であり友人でした。
去風流家元には、名手による花器や書が多くあります。
京の都で幕末の時代を生きた女流文人、大田垣蓮月の作品もその一つである。
一草亭の頃、富岡鉄斎を通じて蓮月と去風流と交流を深め、京焼の世界に波紋を投ずることになった独特な「釘彫り」の作品が現在も手元に残っております。
大田垣 蓮月
寛政3年(1791)、京都の三本木生まれ
生後10日余で大田垣伴左衛門光古てるひさの養女となる。
明治8年12月3日、85歳で終焉。
歌人として知られる九條武子も、大正6年の夏頃去風流の門をくぐった文人の一人である。
去風流家元には、武子が一草亭に宛てた手紙や自筆の歌が添えられた花筏、自作の茶杓が保管されており、去風流にとって武子の存在が大きかったことが感じられる。
九條武子
明治20年(1887)10月20日、西本願寺門主家北殿において、大谷家の二女として誕生した。
父は本願寺第21代明如宗主。母は大谷藤子(法名円明院、紀州徳川藩御殿医松原有積の娘)。
茶の湯の道においては、近代女性数寄者と称される。
昭和3年2月7日、称名のうちにみまかる。
武子は「この世に生を受けたことを肯定し、また多くの同朋との生命の交流で織りなす彼女の人生をこころから悦ぶ姿勢」を生涯持ち続けたという。そのような人生観を持つ武子が、花について詠んだ数々の歌は、挿花により一層の趣を与えてくれることであろう。
捨てられてなほ咲く花のあわれさに
又とりあげて水あたへけり(『金鈴』)
富岡鉄斎も、去風流家元にその作品が多く残されている文人の一人である。鉄斎と去風流との接点は、七世家元一草亭の時代からである。一草亭の著書『風流生活』にも、鉄斎が亡くなるまで付き合いが続いたことが明記されている。
現在、鉄斎の筆による掛軸や箱書きが残っているのは、この由縁と考えられる。
富岡鉄斎
天保7年(1836)、京都三条通の法衣屋、富岡傳兵衛の末子として生まれる。
大正13年(1924)、89歳で永眠。
親密なお付合いは、明治40年(漱石44才)の頃、前年に患った胃潰瘍が再発し、かねてより漱石を崇拝していた津田青楓が、兄の一草亭と、お見舞いに訪れたことに始まります。
その後何度も去風洞を訪れており(当時は、浄土寺ではなく富小路通り押小路下るあたりにありました)、大正4年頃から二人の文通は頻繁になり手紙を通して、お互いに画や書について語りあい親密さを深めていったため、漱石の漢詩や画など数点、手紙類は折本書簡集として今でも去風洞に残されております。
一草亭は漱石の遺徳を偲び、大正15年に漱石忌を昭和10年には、20年忌を浄土寺の去風洞にて催しました。
夏目漱石
慶應3年(1867)、翌年に明治維新となる激動の、当時はまだ江戸と呼ばれていた牛込馬場(現在の新宿区)に生まれる。
大正5年(1916)、12月9日 死去。
代表作に、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」などがある。
一草亭が七世家元を継承して間もないころに、京都の呉服屋・藤井培屋を通じて出会い親交を深めていったようです。
大正七年頃、一草亭は西園寺公望より「花裏神仙」と書かれた軸の寄贈を受け、終生大切に扱った一幅でした。「花は、見かけの華やかさだけでなく、その裏には、もっと計り知れない美しさを秘めており、その意味を理解する事こそ花道である」と解釈し大事な行事の折に、この軸を掛けております。大正十五年六月、浄土寺の去風洞に「一時庵」なる道場を再興した折、開堂式に「花裏神仙」の軸を掛け社中に披露しました。今日でも、お免状を授与する時、床には必ず「花裏神仙」の軸を掛け、その思いを新たにするようにしております。
西園寺公望
嘉永2年(1849)公家、徳大寺家の次男として生まれ、2歳で西園寺家の養子となる。
昭和15年(1940)11月24日、逝去(92歳)
去風流家元六世一葉の次男として生まれる。七世一草亭は実兄。
幼少の頃に住んでいた生家の隣には、袋師土田友湖が、又、竹細工茶杓師、黒田正玄が、近くに住んでおりました。友湖は何事にも知識が豊富で2才年上の兄一草亭と共に幼少の頃より、友湖から多くの事を学びました。
小学校を終えて奉公に出たものの、己の途を模索し四条派の画家竹川友広に日本画を学び始めました。日露戦争に応召、明治39年に帰国し山脇敏子と結婚する。その後、谷口香嶠塾や浅井忠の指導を受け安井曾太郎と共にフランス留学を果たします。
その時代の青楓の交友関係が、高村光太郎や有島生馬などその後に繋がる去風流に関わる文人に大きな影響を及ぼしています。
津田青楓
明治13年(1880)、去風流家元六世一葉の次男として生まれる。
昭和53年(1978)、東京自宅にて死去(97歳)
【五十音順】