去風流は、今から三百年余り前、江戸時代元禄14年(1701年)、京都に生まれた流祖去風により始められました。西川家は、元々米穀商を営んでおりました。しかし流祖は、風流を愛し、商を嫌って家業を弟に譲り、自らは尺八を好み、一時庵と号しました。明和版の『京羽二重』と言う、いわゆる江戸時代のガイドブックには、去風、京都堺町御池、尺八家として去風の名が記されております。去風が尺八を教える席の飾りにと、独自の生花を始めたのが、去風流の始まりでもありました。
版画/徳力 富吉郎 作
当時は、華美な技巧をこらした挿花が世に栄えていましたが、流祖はそれに反して簡素な花形の中に、自然の美を表現しようとしました。それが却って技巧に飽きた世の人々に喜ばれ、去風流というひとつの生花の流儀となり、やがてその花技は、二世去風に引き継がれました。
二世去風以後、去風の名を名乗らず家元はすべて、一の字を頭文字として、一峰、一風、一道、一葉、一草、一華、一泉、一橙となり、今日に至っています。
一葉の頃までは、社中と言えば商家の主人であったり、風流人であったりそのほとんどが男性でしたが、一草亭の時代に入ると、だんだんと女性の社中が増えてきました。一草亭は生花の他に、画、書、茶室、建築とその才能を芸術の世界で次々と開花させ、東京、大阪、京都にお稽古場を持ち、阪神間の上流社会の婦人達への出稽古など、その活躍の場を広げていきました。
八世一華は家元を継承してわずか6年で戦地に赴き、昭和20年(1945年)戦死しました。戦後の混乱期、九世一泉は、去風流の生花に対する情熱は失わず、国情の安定と共にお稽古を再開しました。昭和46年(1971年)、家元は九世一泉より十世一橙に移り、現在に至っております。
生花を含む芸術と言うものは、数学のように確かな回答があるものではありませんから、その解釈も人それぞれ違うのは当然ですが、去風流の特徴を簡単にまとめてみます。
一、 | 花器の種類が多く、又その花器と花材との取り合わせが絶妙であること。 |
一、 | 花材は主に山野草をはじめとする和花を用いること。 |
一、 | 花の色彩の美しさより、枝振りを選び、その線の美しさをあらわすこと。 |
一、 | ひとつの花器に多くの花を入れるより、無駄な枝や葉を慎重に選定し、取り払い、足元を整え、まとまりを感じさせる生け方をすること。 |
一、 | 床の間に生ける時は、掛軸との釣り合いにも注意すること。 |
時代と共に解釈も変わってきますが、花を活けるにあたり、活けてある花を見て安らぎをおぼえ、生命の喜びを感じ感動できる心を常に持てるよう豊かな感受性を育むことが、何より大切なことではないかと思います。
初代 去風 塑像
流祖の筆蹟を模した円額
元禄14年(1701)4月1日生。西川氏。
号は去風。
その庵室を『一時庵』と称す。京都・中京の堺町御池に居住し、明和版の「京羽二重」に尺八家として記されている。「茶」を原叟宗佐に学び、尺八を教えており、席の飾りに独自の生花を始めたと伝えられている。
その花は、門人「藩 梅子」の写生図により伝えられている。藩 梅子は詳細不明だが、大阪に居住して流儀を伝え、相当な門人があったようです。
去風の名は「清治」、その庵室『一時庵』も去風とともに号とも言われています。
晩年、東山に隠棲し庭園に二百華を栽培していました。
明和元年(1764)没(64歳)。京極・了蓮寺に「存里道」と称して埋葬されています。
初代 去風 門人・藩 梅子の写生図
明治11年 | (1878) | 1月13日、京都市中京区押小路麩屋町橘町にて六世・一葉(西川源兵衛)、美上の長男として誕生。 |
明治24年 | (1891) | 13歳の折、日本画四条派の画家「竹川友廣」に手ほどきを受ける。 |
明治28年 | (1895) | 漢学者「山本章夫」に漢学と本草学を学ぶ。 |
明治34年 | (1901) | 洋画家「浅井忠」より教えを受ける |
明治37年 | (1904) | 浅井忠、高安月郊、幸田露伴に活花を教える。又、図案雑誌「小美術」を発刊。 |
明治41年 | (1908) | 30歳にて柿谷勘蔵の三女「はる」と結婚。同年、日出新聞(現・京都新聞)に「僕の美術論」、「ホトトギス」に投稿・掲載される。 |
明治44年 | (1911) | 9月、実弟「津田青楓」を介して夏目漱石と初めて対面。以後親交を深める。 |
大正2年 | (1913) | 6月19日、父「一葉」歿。去風七世家元を継承。 10月18日、南禅寺金地院にて流祖50回忌花会を催す。 |
大正4年 | (1915) | 3月21日、夏目漱石を去風洞に招く。 又、京都清風荘に「西園寺公望」を訪問。以降の交際が始まる。 |
大正5年 | (1916) | 大阪に稽古場を設ける。 |
大正6年 | (1917) | 去風洞社報を発刊する。 6月12日、九条武子夫人入門。 |
大正10年 | (1921) | 東京に稽古場を設ける。 |
昭和元年 | (1926) | 去風洞を洛東浄土寺に移し、流祖去風の茶室「一時庵」を再興する。 10月9日、ラジオ大阪放送局にて「秋の生花」と題して放送。 |
昭和5年 | (1930) | 1月、去風洞社報改め「瓶史」とし、挿花専門雑誌として発刊。 9月、浄土寺宅に新稽古場「掃花寮」竣工。 |
昭和8年 | (1933) | 6月25日、京都放送局にて「高慢と茶人と侘」と題して放送。 |
昭和11年 | (1936) | 2月11日、渡月橋にて吹雪の為、自動車事故にあい重症を負う。 12月4日、母88歳にて急逝。 |
昭和12年 | (1937) | 12月6日、胃を病み京都府立病院へ入院。 12月10日、修学院赤山鳥居前に「草庵」竣工、鳥居茶屋と名付ける。初めて洋間を作る。 |
昭和13年 | (1938) | 1月1日、還暦の新春を病院で迎える。 同年3月19日、退院後「掃花寮」にて療養。病床にて『風流一生涯』の5文字を大書きする。 3月20日、午前8時肝臓癌にて死去。 了蓮寺・流祖の元に葬る。享年60歳。 |
昭和14年 | (1939) | 12月23日、父・去風八世「一華」の長男として生まれる。 |
昭和38年 | (1963) | 一草亭の娘である母・去風九世「一泉」について修業。 |
昭和46年 | (1971) | 九世一泉の死去により、十世一橙を襲名。 |
昭和47年 | (1972) | 秋、襲名披露花会を渉成園(枳穀邸)にて催す。 |
昭和53年 | (1978) | 3月20日、妻弥子との間に長女和佳子生まれる。 後、去風11世を襲名の予定。 |
昭和63年 | (1988) | 3月20日、読売テレビ「宗教の時間〝愛と信仰の歌人〟」に生花作品が放映された。 |
平成2年 | (1990) | 『日本の花譜(19)・去風流(婦人画報6月号)』に生花作品が掲載される。同年、『なごみ(淡交社)5月号・西川一草亭の風流』に生花作品が掲載される。 |
平成7年 | (1995) | 『名茶会再現・上巻/九條武子・花の姿を「源氏物語」に寄せて(世界文化社)-籠谷眞知子』に生花作品が掲載される。 |
平成8年 | (1996) | 襲名25周年記念花会を渉成園(枳穀邸)にて催す。その事が京都新聞に「無理をせず、花は自然に」の記事にされる。 |
平成12年 | (2000) | 2月28日、関西テレビCS部・京都チャンネル「道蒲母都子・九條武子を語る(監修/籠谷眞知子)」にて生花作品が放映される。 |
平成14年 | (2002) | 2月11日、京都新聞に「いけばな、家元はいま12」が記事にされる。同年、襲名30周年を記念して、作品集『挿然(そうねん)』を出版。その事が京都新聞(2002年12月30日)の記事にされる。 |
平成18年 | (2006) | 季刊・銀花-第145号『風流道場・花人西川一草亭の生涯』に生花作品が掲載される。 |
初代 去風 1701年(元禄14年)〜1764年(明和元年) |
二世 去風 生年不明〜1786年(天明6年) |
三世 一峰 生年不明〜1792年(寛政4年) |
四世 一風 生年不明〜1815年(文化12年) |
五世 一道 生年不明〜1861年(文久元年) |
六世 一葉 1849年(嘉永2年)〜1913年(大正2年) |
七世 一草 1878年(明治11年)〜1938年(昭和13年) |
八世 一華 1911年(明治44年)〜1945年(昭和20年) |
九世 一泉 1913年(大正2年)〜1971年(昭和46年) |
十世 一橙 1939年(昭和14年)〜現在 |
去風流の花会は、七世一草亭の頃(1916頃)から去風流の生花のあり方を、お披露目する目的と技術の研鑽のために始められました。門人と共に背景と花器、草木の息づかいを大切にしながら毎回テーマを設けて、現在まで約100年間・年に一度開催しております。
たとえば、去風七世一草亭は「投入れ」「文人生け」の他に、盛花、盛もの、盆石等、次々と新しい生け方にも挑戦し、去風流の発展に、大きく貢献しました。花器も筧や花屏風、花筏などユニークな、雰囲気を漂わせるものを発案しております。花会も毎回、試行錯誤しながら、趣向を凝らしていたようです。
大正7年には、嵯峨三松園にて最も文人的であった俳人・与謝蕪村の俳句と花を取り合わせた「一句一花会」を催し、それを「百花図巻」という巻物にして残しております。
また大正8年には、九条武子を幹事とした「源氏五十四帖花会」を伏見西本願寺別荘三夜荘にて開催しております。その他、会場を「支那室」「日本室」「欧米室」に分けた花会、円山長楽館にて洋風建築に合う挿花会を開催。昭和に入ると花会の数は、ますます頻繁になり東京三越にて「漱石の書と花の会」、大阪三越では昭和9年に「花と衣裳と器物の会」。昭和10年「万葉集秋の七草」。昭和12年「百椿会」など非常に評判になりました。
また、花会のためだけでなく「いかに自然な活け方」を、魅せるかを工夫した中で流派の先人が独自の花器を文人や職人と共に生み出しました。
近年、他流派におきまして良く似た花器を見かけますが、切磋琢磨の中で生み出され宗家が大切に守ってまいりました「名器」とは異なりもの足りなさを感じます。
時代が大正・昭和から平成に変わった今も花会の度に、新たな挑戦を続け主催する側も楽しみながら、次の世代に、去風流の花会を伝え続けてまいりたいと思います。
毎年1回発行。去風流の活動記録や、七世一草亭の遺稿、一幅一瓶、文人と去風流、去風洞十勝図、掃花寮の一部などを掲載しています。
編集 西川弥子
「去風会だより」第20号(最新号)
令和元年6月発行
襲名25周年を記念して、自費出版した生花作品集(60作品・収録)
2002年11月1日 発行
〔仕様〕
タテ200ミリ×ヨコ210ミリ
(オールカラー66ページ)